前のページへ 前のページへ トップへ トップへ戻る 次のページへ 次
台湾個人旅行パノラマ
Date: 2001/09/24 - 09/27
Camera: Olympus C-2020Z + Wideconverter
付記:台北の観光情報は、 「旅々台北.com」が便利である。
Fig06
オレンジ色に光るのは。
Fig08
如月氏が台北訪問の際に食した
現地のファーストフード。
台北市内は、雨模様であった。 いや、それどころではない。 実はこの年、台北は巨大な台風に襲われ 大きな被害を受けていたのだ。 市内の要所を結ぶ交通機関の要であるMRT(地下鉄)駅は水没し、 街の端々に目を向けると、 大水で打ち上げられた瓦礫が積み重なっている。 何もそんな時期を選んでいくことはなかったと思うのだが、 私たちが選んだ時期にわざわざ台風の方がやってきたのである。 そうに違いない。
 さて、停留所に降りた我々の目に最初にとまったのは、 見覚えのあるオレンジ色の看板であった。 全世界展開しているらしい。 米国の狂牛病騒ぎのあおりを受け 日本の吉野家が牛丼販売をストップしてすでに久しい。 今、この文章を書いている時点で 多くの日本人達はすでに一年以上も牛丼を口にしていないのだ。 どうしても食べたくなったら、台北に行くことをおすすめしよう。 季節にもよるが、格安往復券なら二万円そこそこで購入可能だ。
 とはいえ、失われて初めて気づく牛丼のありがたさを自覚することなど 想像だにしなかった当時、我々は
「外国に来てまで牛丼食うなんてお馬鹿さんのすることだよな。」
と明確に如月氏のことをさして冷笑しつつ、その場を通り過ぎたのであった。
Fig.07
まさかこのホテルで…
 歩くこと数分で、我々はこの旅の拠点となるホテルに到着した。 今となっては、 このホテルの名前も失念してしまったし、 当時英会話などみじんもできなかった我々が、 reservationや、check-inなどといった単語も使わずに いかにして手続きを済ませたのかという点も含め、 一切は記憶の奥深くに封印されたままである。 唯一残っているホテルの写真とともに、エピソードを一つ紹介しよう。
 エレベータから我々が降りると、 一人の中年男性が無線機のようなものを持って、 ホールをうろついていた。 通り過ぎる我々を見て、にやけた笑顔を送っている。 これといって気にすることもなく部屋に入り、 荷物を下ろしてくつろいでいると、誰かがドアをノックしてきた。
「はいはーい。」
警戒心など持ち合わせていなかった我々は、 ホテルの従業員だろうと思い、無防備にも確認することなくドアを開けた。 わずかに開いたドアのすきまから、するすると入り込んできたのは、先ほどの男である。 にやけた顔のまま、何事かをぺらぺらと話している。 英語と中国語と日本語のようだが、あまりよく聞き取れない。 片言の日本語を何とかつなぎ合わせるに、氏曰く
「兄ちゃん兄ちゃん、女子大生おるで。買うてえな。」
ということであるらしい。 その内容を察した私は赤くなってすくんでしまったが、 Tき君はずかずかと男のところへ近づくと、
「うちら貧乏学生なんで、金ないんですわ。すんませんな。」
と言い放った。 明確な拒絶の言葉を聞くと、男はまたにやにやと笑いながら後退し、 姿を消したのであった。 それから二日間、我々は同じ部屋に投宿したが 斡旋業者が現れることはなかった。 やはり、何事も金と言うことである。
Fig.09
夜の屋台
 ひとしきり部屋での時間を過ごした我々は、 晩飯がてら街へ繰り出してみることにした。 ホテルの周辺には屋台が出ており、 庶民の味を堪能する好機会であることは疑う余地もない。 ざっと見た限り、台湾の人々は、あまり家で晩ご飯を作らないようだ。 みな屋台でおかずのようなものを買って持ち帰っている。 その場で食べている人も多い。 我々がスーパーでお総菜を買うようなものだろうか。 そのような風景を眺めながら、 我々は手頃な食堂を探して歩き回った。 が、初めての個人海外旅行。 しかも先ほど斡旋業者の洗礼を受けている。 なかなかに店を選ぶことができなかった。 はっきり言えば、びびってしまったのだ。 建ち並ぶ屋台の料理は どれも庶民感覚にあふれていて、 我々の見知っているものなど何一つない。 「どこにしようか。」「ここはいまいちだよなあ。」 そんなことを言っている間に我々は屋台街を過ぎてしまった。
 もう一度同じところを歩いても、やはり同じ結果にしかならないだろう。 いっそ河岸を変えてみることにした。 そうすれば気分も変わり、勇気も出るだろうし、入りやすい店もあるかもしれない。 そう考えた我々は、台北名物の夜市へ繰り出すことにした。

(次のページへ)
前のページへ 前のページへ トップへ トップへ戻る 次のページへ 次のページへ